4月5日開催「ええとこさがそ!」のコース解説
「京に咲いた女たち」ウオーク③
「八重の桜」解説
同志社創立者の新島譲を支えた妻、八重。
激動の時代を全力で生き抜いた、たくましい日本の女性を「京の桜」の中に見つけに歩きます。
●コース:約12キロ
二条城~京都所司代屋敷跡~京都守護職屋敷跡(容保桜)~京都御苑~女紅場址~平安神宮~南禅寺~知恩院~円山公園(枝垂桜)~八坂神社~河原町五条~JR京都駅
●新島八重と京都
激動の幕末を生き抜き、「ハンサムウーマン」と称された新島八重。
京都には彼女のゆかりの地や、生まれ育った福島・会津藩ゆかりの地が数多く残っています。
新島八重は、会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の三女として誕生。戊辰戦争の時には断髪、男装し戦いました。故郷・会津が新政府軍との戦いに敗れた後の明治4(1871)年、八重は京都へ移り住みました。八重は新たな地での再出発を決意し、京都へ向かったのです。
八重と京都の縁を繋いだのは、彼女の兄・山本覚馬でした。覚馬は京都の治安を守る「京都守護職」に任ぜられた会津藩主・松平容保に従い、先に京都に来ていました。明治維新の後も、覚馬は優秀な人材として明治政府に請われ、京都府の政治顧問を務めます。覚馬は積極的に政治指導や勧業政策に携わりました。
兄・覚馬の元に身を寄せた八重は、覚馬が開設した女性の職業訓練所・女紅場(にょこうば)に勤める傍ら、英語を学び、新しい知識を積極的に得ようとしていました。そんな折に出会ったのが、京都で学校を設立しようと覚馬の元を度々訪れ、後に同志社を設立する新島襄でした。
2人は明治9年(1876)に結婚。男勝りで自分の意見をはっきり言う性格の八重と、アメリカ帰りでレディファーストが身についた襄は、大変お似合いの夫婦でした。しかし、夫に意見したり夫より先に車に乗ったりする八重の姿は、妻は夫につき従うものという考え方が根強かった当時は奇異に映り、世間から「悪妻」と批判されることもしばしばでしたが、八重は全く動じることはありませんでした。そんな八重を、襄は「彼女は決して美人ではないが、生き方がハンサムなのです」と書き残しています。
襄の没後も、八重は日本赤十字社の社員として看護活動に従事したり、禅の教えに興味を持ち、建仁寺を度々訪れたりと、生涯積極的に社会に出て活動を続け、1932(昭和7)年、自宅(現在の新島旧邸)で86年の生涯を閉じました。
故郷の敗戦という苦境や京都という新しい環境、世間の反対にあっても、堂々と自分らしさを貫いた八重。彼女の姿は実にエネルギッシュで、時代の先駆を行くものでした。
●元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)
1603年(慶長8)徳川家康が造営、3代家光が伏見城の遺構を移すなどして増築を行い1626年(寛永3)に現在の規模になる。東西約500メートル、南北約400メートルに塁を築き堀をめぐらす。1867年(慶応3)15代慶喜が大政奉還を決めた。現存する二の丸御殿(国宝)は6棟からなる武家風書院造。部屋の障壁画は狩野一派の名作。彫刻、飾金具を含め桃山美術の粋を伝える。二の丸庭園(特別名勝)は小堀遠州の作。本丸御殿は天明の大火(1788・天明8)で焼失。現在の建物は京都御苑内にあった旧桂宮御殿を移築したもの(重文)。1994年(平成6)12月。「古都京都の文化財」として「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。
●京都所司代上屋敷跡(きょうとしょしだいかみやしきあと)
ここより西方大宮通り辺まで(北は丸太町通、南は竹屋町通)の一帯の地で、現在大半が待賢小学校用地となっている。所司代の名称・役職は、室町幕府の侍所(さむらいどころ)にはじまり、徳川時代の所司代は関ケ原合戦の直後設けられ、皇室・公家の監視、京都諸役人の統率、近畿八カ国の訴訟処理、西国大名の動静監視など強い権限を持ち、幕府の老中につぐ最重要役職であった。とくに3代目の板倉重宗は名所司代のほまれ高かった。文久2年(1862)京都守護職の新設で所司代はその管轄下に属し、王政復古(おうせいふっこ)により廃止された。跡地には、明治3年、わが国最初の中学校・京都府立京都第一中学校が建てられた。
●京都守護職屋敷跡(きょうとしゅごしょくやしきあと)
幕末の政治・治安の維持に対処するため1862年(文久2)江戸幕府が設置した職名の一つ。会津藩主松平容保が就任。翌3年今の京都府庁・第二日赤病院・梅屋校におよぶ広い地域の民有地99,000平方メートル(3万坪)を買収し守護職屋敷を造営。京都所司代・京都町奉行の上位に置く。1867年(慶応3)王政復古により廃止。府庁内に石碑がある。
●容保桜(かたもりざくら)
京都府庁の敷地にはかつて京都守護職上屋敷があったことから、当時の守護職であった、會津藩主 松平容保(まつだいらかたもり)の名を取って「容保桜」(かたもりざくら)と命名されました。
なお、命名にあたっては、松平家第14代当主 松平 保久(まつだいらもりひさ)氏及び京都會津会会長 森田嘉一(もりたよしかず)氏(京都外国語大学総長)の御了解を得ています。
松平容保(まつだいらかたもり)は幕末、京都守護職として新選組を配下にし、京の治安を守っていたと言われています。
山桜が変異したもので、「山桜の遺伝子を持ちながら大島桜系の花の要素も出ている。」
「通常の山桜より大輪である。」(佐野藤右衛門氏)
●京都御苑(きょうとぎょえん)
京都御所と仙洞御所、大宮御所を包含する東西700メートル、南北1300メートルの広大な緑地で、環境省の管理する国民公園。禁門の変で有名な蛤御門など四方から自由に出入りでき、芝生や梅林などがある格好の散策地。運動広場など憩いの場の他、閑院宮邸跡(月曜・年末年始休、無料)、拾翠亭(3/1~12/27までの毎金土曜、100円)など、歴史的遺構も残る。なお、御所の管理は宮内庁であり、御所参観の受付は宮内庁京都事務所(TEL 075-211-1215)が行っている。
●女紅場跡(にょこうばあと)
明治初期に設置された女子教育機関。1872年(明治5)まず新英学校女紅場が上京区土手町通丸太町下ルに開設。のち女学校を経て1901年(明治34)に京都府立第一高等女学校(現鴨沂高校)と発展。1873年(明治6)以降は市中女紅場を各学区に設置、裁縫・手芸などを教えた。丸太町橋西詰に石碑あり。市バス河原町丸太町200メートル。
●平安神宮(へいあんじんぐう)
平安遷都1100年祭(1895年・明治28)に市民の総社として鎮座。桓武、孝明両天皇を祀る。平安京大内裏の正庁を模した応天門、大極殿など朱塗りの建築が美しい。神苑(名勝)は約3万平方メートルの池泉回遊式庭園で、東、中、西、南の4苑にわかれ、それぞれの四季の花が見事。10月22日の時代祭行列は豪華な風俗絵巻。
●南禅寺(なんぜんじ)
臨済宗南禅寺派の本山。1291年(正応4)亀山法皇の離宮を賜り、無関普門(大明国師)が開山。室町時代は隆盛を極め、「五山之上」に列せられた。応仁の乱で焼失した伽藍を‘黒衣の宰相’といわれた以心崇伝によって復興。境内には勅使門、三門、法堂、方丈の伽藍が一直線に、その周辺に12の塔頭が並ぶ。三門(重文)は、藤堂高虎の寄進。方丈(国宝)は、大方丈と小方丈に分かれ、大方丈は御所の殿舎を、小方丈は、伏見城殿舎を移築したと伝えられる。小方丈の襖絵、狩野探幽筆「水呑の虎」は名高い。大方丈の前庭(名勝)は伝小堀遠州作で「虎の子渡し」と呼ばれ、江戸初期の代表的な枯山水庭園として知られる。
●知恩院(ちおんいん)
知恩院は、宗祖法然上人が1175(承安五)年、吉水の地に草庵を結ばれたことを起源とし、入寂された遺跡に建つ浄土宗の総本山。第二世源智上人により基礎が築かれ、徳川家康、秀忠、家光らの外護により現在の壮大な伽藍が形成された。
境内には、国宝の御影堂や三門、重要文化財の勢至堂、集会堂(法然上人御堂)、大方丈、小方丈、経蔵、唐門、大鐘楼など文化財指定建造物が建ち並ぶ。
三門は1621(元和七)年に徳川秀忠によって建立された我が国最大の木造二重門。法然上人の像(御影)を安置する御影堂は、1639(寛永十六)年に再建された中心的堂宇で、2012年から8年間にわたる半解体修理が行われている。紙本著色法然上人絵伝(四十八巻)、絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図、上宮聖徳法王帝説(いずれも国宝)など多数の文化財を蔵する。
●円山公園(まるやまこうえん)
1886年(明治19)開設の市最古の公園。八坂神社の東、東山を背に約86,600㎡あり、回遊式日本庭園を中心に、料亭や茶店が散在、四季を問わず風情がある。京都随一の桜の名所で、花見時の‘祇園の夜桜’は一見の価値あり。野外音楽堂、あずまや、藤棚、便所、池泉、噴水。
●枝垂桜(しだれざくら)
この枝垂桜は、昭和34年3月6日に植えられたもので、親桜は、有名な「祇園の枝垂桜」である。 祇園の桜は、樹齢200年の老木で、根廻り4メートルにも達する巨木であった。明治末年頃が最盛期で、開花時には盛観を極め、名樹とうたわれたが、昭和22年、天寿を全うして枯死した。しかし、幸いにも昭和2年に種子を蒔いた2世の桜が育成されており、そのうちの1本をこの地に植樹したものである。よって、この桜と祇園の桜とは姉妹桜である。 この枝垂桜は、和名エドヒガン桜の一種でイトザクラに改良したもので、古くから、庭園用の桜として愛好されてきた種類である。 開花時期は、早ければ3月下旬、遅くとも4月上旬頃である。桜の中では、長命なものは樹齢100年になるものも珍しくなく、この枝垂桜も、これ以後次第にみごとさを加えてゆくものとして期待されている。東山区祇園町北側
●八坂神社(やさかじんじゃ)
祭神は素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神。明治維新まで祇園社または感神院と称した。創祀は、諸説あるが社伝では斉明天皇2年(656)と伝えられ平安遷都がなされた延暦13(794)以前よりこの地に祀られていたとされる。また、貞観11年(869)疫病流行の際、当社の神にお祈りして始まったのが祇園祭である。平安時代には二十二社の一に数えられ、朝廷からも厚く崇敬された。一方、民衆の信仰も深く京都はもとより全国に広く崇敬されるようになった。現在ではこの神を祀る神社は三千余社に及ぶ。