声かけ
「目が見えない…て、どんなこと」なんて考えられたことのある人がどれほどおられるか分かりませんが、皆さんのお住まいになっている地域の中でも「見えない人、見えにくい人」は一定数おられるはずです。
おそらく皆さんは、「見えない」ということは真っ暗闇の中に放り込まれたような状態を考えておられるかもしれません。確かに途中失明された方の最初はそれに近い感覚かもしれません。
しかし、現実の生活場面では、そうした状態よりも大きな障壁があります。
「見えている人」は「見えない人あるいは見えにくい人」のことなど意識しなくても生活していけますが、「見えない・見えにくい人」は常に「見えている人」のことを意識していないと生きていけません。
お互いがお互いのことを意識しあって生きていけるような環境。それがあらゆる場面で実現することが望まれます。
そこで、今回から、「見えないこと・見えにくいこと」がどんなことなのか?少しずつ知ってもらうことで「理解」へと繋がっていって欲しいという願いをこめて、いろんな場面を紹介させていただきまがら一緒に考えていきたいと思います。
私の家から歩いて数分の所に、3年前、『まちの縁側ぽかぽか茶屋』というお店ができました。
キャッチフレーズは、お子さんからご高齢の方まで,誰もが気軽に立ち寄れ,ひなたぼっこのように ほっこりできる場所。ココロがぽかぽかするようなつながりがたくさん生まれますように…と。
私は、70歳半ばになる盲導犬ユーザーです。
この『ぽかぽか茶屋』に当初から出かけていて、2歳くらいまでの子育中のママさんたちと話し合いの場をもったり、視覚障がい者用の碁盤を持ち込んでご近所の方とお手合わせをしてもらったり、きれいな日本語を若い人たちにも伝えたいと童謡などを歌う時間をもったり、今は懐かしの歌を歌う昭和人間の集まりになっていますが。
この『ぽかぽか茶屋』でお知り合いになった数名の方々から朝の散歩で出会ったさい「Oさん、おはようございます。何々です」と声をかけられることが多くなりました。「おはよう」と声をかけてもらって応じてはいるものの、さてあの人はだれだろう?と思いつつやり過ごしてしまうことがしばしば。時には「おはようございます」という声に「おはようございます」と応じかけたら、それはスマホに向かって話しかけられているところだったりしてちょっと気まずい思いもします。
私の名前をまず言ってもらうことで、その人は確かに私に話しかけておられる。そして、どなたが私に声をかけられたかご自分の名前を告げてもらう。見えている人同士であれば顔と顔、目と目で分かることが「見えない・見えにくい人」とのかかわりにおいては「言葉」が通じ合うツールとなります。
視覚障がい者といっても、白杖や盲導犬を使っている人ばかりではありません。今
や視覚障がい者の世界も「弱視」と言われる人が圧倒的に多いのです。これらの人たちは、視力の程度も様々、明るい所ではよく見えても暗い場所では全く見えない、その逆に明るいところではまぶしくて全く見えない人など。十人十色です。普通に歩いているようで、視野が狭くてちょっと角度が変わると見えない人もいます。ご近所で独り歩きしている人でも、通りかかる人の顔までは判別できず挨拶がこちらからはできない、という方もいます。そうした状況を知ってもらえていないことから「挨拶もしない」などと誤解を招くこともあります。
電車やバスを待つとき、列の後ろがどこなのかがわかりません。「列の後ろはどこですか」と大きな声を出して尋ねるのが良いのですが、ちょっと勇気がいります。親切に「ここに並んで」と列の前や途中に並ばせようとしてくれる人もいます。見えない者にとっては、列の最後尾を教えてもらえることが最もありがたいのです。
また、一緒にバスを待っているとき、「〇〇行きがきましたよ」とさりげなく言
てもらえると助かります。うっかり乗り間違ってしまうと大変です。
電車やバスに乗ったさい、空席があったら、「席があいていますが、すわられますか?」と声をかけてください。目は不自由でも足腰はしっかりしている人もいます。座ってもらうことが親切ではなくて、席が空いていること、その席がどこにあるのか。そして、その人は座りたいのか?あくまで「目を提供」していただきたいのです。それ以上の関わりはおせっかいとなる場合があります。だからといって知らぬふりをし
ないでくださいね。
「やってあげた」という満足感ではなく、「目の代わりだけしたよ」というさりげない関わりをしてもらえる人が増えてきたら、どんなにか視覚障がい者の生活も穏やかになってくるでしょう。